②『アンドロイドは雪解けの季節に涙を流すか』

2章 渋谷の雑居ビルの一室 薄暗い部屋

 

「物を書くということは,まことに情熱的な仕事なのですよ.物書きに限らず,何かを作る仕事にはすべからく情熱が必要なのでしょうね.」

目の前の黒いスーツの男はそんなことを言いながら,椅子に座って下を向き,何かを書き続けている.

「私が何を書いているのかと,不思議に思われますか?これは,あるアンドロイドの生命の記録ですよ.アンドロイド達の歴史を人生と呼ぶ人も居られますが,私はそういう呼び方が好きではありません.」

その頁数は既に300頁を超えているようだ.何のためにそんな記録をつけているのか,そもそもアンドロイドなどというものが存在するのか,私は疑心暗鬼であった.ここへ来たのは半分以上自暴自棄が理由である.私の心はもはや,現世の何処にも無い気がしていた.あの病室の「ピー」という音の狂騒にさらわれて,Aの命とともに,私の心も手の届かないどこかへ行ってしまったらしい.

「私はこれまで凡そ50名のお客様に“未来”,アンドロイドをご提供してきました.私が初めてご提供したのは今から7年ほど前になります.お客様のうち,ある方はアンドロイドを完全に人であると信じておられるようです.確かに私がご提供するアンドロイドは喜怒哀楽を持ち,愛を分かち合うことができ,物を食べ,年を取ってゆきます.それはまさに人そのものの様です.しかし私自身にとっては,それは紛れもなくアンドロイドなのです.」

黒いスーツの男の言葉が右から左へ抜けていく.

「それであの,ここをお尋ねしたのは,先日カフェで頂きましたお話をもう一度伺いたくて・・・.」

「私の意見等,どうでもよいのです.お客様が喜んでくだされば.さて,ええ存じております.あなたも,”未来”をご所望なのですね?」

「はい,でもどうすれば?」

「“未来”をご購入いただくお客様には,以下の条件を遵守いただく必要がございます.」

その条件とは以下のようなものであった.

一,提供されるアンドロイドの価格は500万円である.

二,提供されたアンドロイドを殺したり,悪意を持って傷つけてはならない.

三,アンドロイドであることを,否定してはならない.

 

この時のことを,私は朧げに覚えている.当時の私は心ここにあらずの状態であり,三番目の条件の重要性や真意について,ほとんど考えなかった.

私は手短に「はい,守ります.」とだけ答えた.

 

「遵守いただけるとのことですので,“未来”をご提供いたします.では確認でございますが,お客様がご所望の方は,“A様”でよろしいですね?」

私は「はい.」と,短く言った.そうして,黒いスーツの男は頷いて,私に青いカプセルを飲めと言い,私はそれを飲んだ.飲んだ後は,青い海,青い空,青い鳥・・・雪が解けている,あの雪解けの懐かしい肌寒さ,あの美しい・・・,三千世界へと意識が漂流していった.

 

3章へ続く