テーマ:愛,ホラー,シリアス,孤独,理不尽,みみ

 このテーマを与えられて,私は先日読んだとあるニュース記事を想起した.その内容は,26歳の売春婦が,80歳の老人をホテルに誘い,老人がシャワーを浴びている間,女は老人の財布をあさり3万円を盗んでいた.その現場を老人に目撃され,老人に怒りを向けられた拍子にカッターで老人を刺し,殺してしまったというものだった.この事実だけを読めば,この事件はろくでもない空虚な非業かも知れない.しかしこの売春婦の過去を歩いた後は,なんともやるせなく,曇天の下の公園の寂しげに揺れているブランコを見る様な気分になった.

 女は西日本のある土地で生まれ,生まれた当初からADHDを患っていた.学校生活では終始孤独,いつの日かに不登校になり,親からも愛情を注がれることは無かった.就職にも失敗し,社会からやんわりとした断絶を突き付けられ,生活保護に頼って暮らしていた.20歳頃,女は子供を産んだ.父親は誰か分からない.その2年後に,オンラインゲームを通じて出会ったAと仲睦まじくなり,女は上京した.女はAとネットカフェに住んでいた.収入は2か月で14万円の,女の精神障害年金のみだった.2か月で14万円,2人の生活はすぐに行き詰まった.女はAに好意を寄せており,はじめはAとも相互的で幸福的な心象の中を生きていた.しかし2人は金に困っていた.Aはやがて,女に売春を強要するようになった.1日か2日で3万円を稼ぐこと,それがAに課されたノルマであった.女はノルマを達成すればAから頭を撫でられ,ノルマを達成できなければ身体をぶたれたという.女は裁判でこの売春劇を振り返り,「何も感じなかった」と言った.Aから褒められ,優しくされ,ただAのために尽くすことが生きがいであったのだという.女は,3万円のほかにもアディショナルフィーを払うようになった.それは,売春客から盗んだ金であった.この盗みがばれた時は,Aがトラブルに対処したという.その”対処”後は,必ずぶたれたという.この一連の非業の中でも,女はAを愛していた.私はこの愛について,「愛が精神を蝕み,感情を殺していった」などと評したくはない.それは確かに純愛であったのかもしれない.ともかく女は老人を殺してしまった.Aは不起訴になった.これがこの事件のサマリーだ.

さて,愛とは何であろうか.こんな話もある.とある東京近郊に住まうなんとかきゅーるという男は,みみという名の付く女の脚が好きであった.みみという名の付く女とは,誰をも指して誰をも指していない.京浜東北線か山手線の車内で,電車に揺られている時に人様の顔を見て,その顔の上に”みみ”の文字が浮かぶことがある.その者が”みみ”なのである.みみの脚はとても美味しく思えてならない.パテを切って,パンに載せて食べるみたいに,みみの脚を食べたいのである.しかしなんとかきゅーるという男は,極度の根性無しらしく,暗い地下室にこもって,「自分がいかに優れているか」などと言う手記を書き連ねている様な奴なのだという.そんな男が,みみという脚にナイフを突きつけられるかと言えば,そんなことはできない.だからなんとかきゅーるという男は,いつも寝る前の瞑想にふけるとき,意識が茫洋の彼方へ溶けてゆくとき,その脚の血液と毛細管の流れを思うことにしている.そうして朝起きて,自分が血液でもなく六足の虫でもないことに,いつも絶望しているのだという.この,なんとかきゅーるという男は,1本の脚に情欲を支配されているのか,”みみ”という偶像に脳髄を侵されているのか,単なる精神異常の最果てに居るのか,定かではない.しかし,これもひとつの純愛の形やもしれない.なんとかきゅーるという男は,脚を食べる欲情に心焼かれるひと時のみ,数多の絶望から解放される失楽園に居ることができるのである.もし脚を食べてしまったらどうなるであろう.愛すべき対象から愛されてしまったらどうなってしまうであろう.その愛を過ぎた後,炎は絶望を焼いてくれるのか.

 さて,愛とは何であろうか.かの有名なエーリッヒ・フロムという羊は,「愛することは技術である」と鳴いている.曰く,愛とは本能的であり,理性的であり,社会的動物に組み込まれた根源的な情動なのだという.それを持つことと,伝えることは全く別の様態であって,愛すること,つまり他者と愛を分かち合うことは,手を心地よい力で握り合う様に,一種の技術なのだという.また別の羊は,愛はどこに在るか?という問いに,「愛は肌に在る」と答えている.この解釈は,愛が好意の延長線上にあるという前提を置いているように思われる.たしかに,女はAを好いていた.なんとかきゅーるは,みみの脚を好いていた.しかしこの人々の愛は,肌に在っただろうか?理性的であっただろうか?

 私には愛が分からない.愛の正体を説明すること,それは百年の所業に思えてならない.愛について考えることに百年を費やすことを決めた男のもとには,月の欠片みたいな貝殻が空から降って来るのだという.そして愛は,貝殻で地面を掘って,愛を埋めるように男に囁く.その労働を終えて百年の時が過ぎれば,地面から紅い花が咲いて,男の口元まで届くらしい.こんな悪夢を第一夜にはみたくないものだ.

皆,現実を飾り過ぎている.愛とはおそらく,単なる電気信号に過ぎない.それを他者に伝えた時には既に,愛ではない何かに成っている.そして内部に在るうちにすら,別の何かを愛と呼称している愚鈍ですらあり得る.人間と羊は愛に抗うことはできない.愛ではなく,狂といった方が本質をついているかもしれない.私は愛が幸福の必要条件であるとは思わない.しかし「愛する人は幸福である.」この命題が真であると世界が主張するなら,私は対偶命題として「絶望する人は愛を強要される」これを世界に強要したい.

変身(純粋無垢なる完全なパクリ

 朝起きたら鳥になっていた.昨日までは牧草を食べてメェメェ言っていた羊だったのに.小さなかわいい子供に連れ添われて,世界を旅していた羊だったのに,今日起きたら鳥になっていたんだ.3本の指が生えた2本脚で牧草に立っている.牧草が食べづらい.がんばって食べてみても,牧草はとても不味い.仲間というか,単に隣や前後に居た羊たちは,どこかへ行ってしまった.あのかわいい子供もいない.今日から僕は,ひとりで飛ばなければならない.広大な空を,道しるべの無い空を,行く当てもなく飛んでいかなければならない.「行く当てが分からないなら,無理に飛ぶ必要は無いんじゃないか」と地に這う虫に言われた気がする.だから辛いんじゃないか.無理に飛ぶ必要は無いかもしれない.でも,無理にでも飛ばなければいけないことだけは分かってる.いや,分かってるんじゃない,空にその声が響いてるんだ.誰が言っているのか分からない.ただ,「飛べ,飛べ」と言ってくるんだ.だから飛ばなければならない.

 また,僕は何かを食べなければならない.食べなければ死んでしまう.死ぬことはきっと悪いことだ.でも僕は,何を食べるべきなんだろう,何が好きなんだろう,何が美味しいんだろう.多分そういうことはみんな当たり前の様に知っているんだろう.でも僕には分からない.だって朝起きたら鳥になっていたんだから.

 木々の向こうで影が揺らぐ.異様な何かが居る.顔を出した.犬だった.僕の方を見て,涎を垂らしているじゃないか.走ってきた,間違いなく,あれは僕を食べようとしている.逃げなきゃ,飛ばなきゃ,死にたくない,死にたくない.僕は逃げるように飛んだ.大空の初飛行.飛んでみると悪いものじゃない.頬をかすめる冷気が心地よい.羊の頃は,こんな疾走を感じたことは無かった.大空から見ると,世界はとっても狭いんだなと思った.昨日までてくてく歩いてた道が,まるで川の水みたいに過ぎていく.僕を食べようとした犬ももう,ちっぽけな石ころみたいだ.どこかへ転がっていってしまった.

 僕はまだ飛んでいた.沈む夕日が向こうに見える.海の中に沈んでいくみたいだ.羊の頃は海すら見えなかった.それは単なる大量の水に過ぎなかった.世界とはこんなに美しいんだと心打たれた矢先に,日の沈むまで何も食べていないことを思い出してしまった.

 夜が来る.真っ暗だ.眠気もさしてくる.でも何か食べなければならない.犬がいないことを確認して地に降りた.おなかが空いた.草は生えているが,それを食べるべきでないことは朝に知った.涎も出てこない.目を移していると,一匹のミミズが目に入った.涎が出てきた.驚きと恐怖.僕はミミズを食べたいのか,ミミズに情欲をそそられるのか,過去に踏みつぶしたこともきっとあるだろう.その時の気持ち悪い感触,単なる不快な虫を,僕は今食べたい.口先が動き出す.耐えかねてつまむ,かみ砕く,味わう,美味しい,美味しい,美味しい,ああ僕は,もう羊じゃないんだ.

 眠気が来た.羽をたたんで,丸くなるようにして寝る.もはや僕は寝方も知っていた.意識が遠くにいってしまう.かわいい子供も,今では遠くにある石ころみたいだ.

 朝起きたらまだ鳥だった.行く当ては未だ分からない.とりあえず,水が飲みたい.

劇薬

[Hellculeを投与します]

薄れゆく意識の中で,その声を聴いた.

目の前が明るい.緑の草原,ゆらゆらと揺れる草木に透明な水が滴って.大地へ流れそこに陽が差して,刹那に虹色に輝く.小鳥の可愛げな合唱が聴こえる.樹々の間から差し込む光のカーテンが,奥に続くこの道を照らして,私はその奥のまん丸い光に吸い込まれるように,その道を歩いて行った.

眩しい光,眩暈と無音に包まれながら,私はリビングに入った.「〇〇,お帰り.早かったね.」優しい母の声.ダイニングテーブルの上に野菜サラダが置いてある.窓から差し込む陽がきらきらと輝いている.テレビでは,王様のブランチが,売れ筋の小説なんかを伝えていて,母は「これも面白そうね.〇〇にはちょっと早いかな?」なんて言って,とても嬉しそうだ.僕は「着替えてくるね」と言って,リビングの奥に続く扉を開けて中へと入った.

「あら,お帰り.今日は早かったのね.今日はあなたの好きなカレーを作ったの.ほら,パパに『おかえり』って挨拶してね,よしよし.」優しく美しい妻が微笑みながら,いつも通りに私を出迎えてくれる.最近建てた一戸建て,午後7時,陽が沈んだ後に生まれる幸福の時間.壁に飾ったゴッホのひまわりのレプリカが,その部屋の瑞々しさに花を添えている.僕は,「先にお風呂に行ってくるね」と言って,奥に続く扉を開けて中へと入った.

真っ暗だ.

真っ暗な部屋だった.床に横たわる動かぬ物体.緋色の血液でアクションペインティングされた壁画,手に握られたナイフ,一定にリズムを刻みながら,その先端から滴る失われた30年.業火に包まれる.全部燃えてしまえと,誰が放ったかわからぬ終幕の帳に,あたり一面包まれて,まるで四面楚歌,非業の末路,苦悩の洪水が雪崩れ込んで絶望が顕然する間近,そしてすべてが消えてゆく.

 

瞼が持ち上がる.ぼこぼこ,ぷかぷかと,気泡が目の前を過ぎてゆく.ひんやり暖かい.

通りを挟んで,無数に並ぶカプセルの群衆.左に子供,右に老人,目の前に女.女は俯いて,身体からは力が抜けているようだ.青黒い部屋の中で微かに見えるその表情は,安息の様相が見て取れる.

血飛沫が頭をよぎる.午後10時だった,口座残高に表示された-7000万円という数字,すべてが終わりだと思った,近くに果物ナイフがあった,それを握って,私はリビングに入ってしまった.午前2時,暗い部屋にひとり,ただ立ち尽くしていた.

なぜ狂ってしまったんだ,なぜ壊してしまったんだ,なぜやってしまったんだ,なぜ私は

[Hellculeを投与します]

またその声が聴こえて,意識が遠くにおちてゆく.

 

ざぁーーーーーっ,さざ波の音が前から後ろに過ぎてゆく.宝石の埋まった砂浜で,茫然と立ち尽くしていた.「あなた,座ってこれでも飲んだら?ほら,※!$####,そっちへ行っちゃだめよ,戻ってきなさい.」座ってサイダーを飲んだ.のど越しが抜群だ.真上にかげる太陽が,海を照って,砂浜を照って,マリンブルーに宝石が添えられた時価7000万円,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,

のかき氷みたいに,僕は[幸せ]を知っていたんだと思った.

妻の身体は美しい.背丈も高く,すらっとしていて,赤の水着がとてもよく似合う.麦わら帽子をかぶって,「一粒の麦は,落ちて死ななければ一粒の麦にすぎないが,死ねば豊穣の実を結ぶ.」,美しい.神が妻を殺したんです.

かき氷に緋色のイチゴシロップが滴る.海が,空が,砂浜が,太陽が,パラソルが,音が,風が,カモメたちが,人間が,まるでテトリスのブロックが崩れるみたいに,パラパラと,ボロボロと,深海へと堕ちてゆく.

 

瞳が持ち上がる.青黒いライトの先で女がこちらを見ている.首を突き出していて,その瞳は何かを求めているようで,ゴーグルの中に涙がぽたぽたと,溢れているみたいだ.

心に,何かが沸き上がるのを感じた.その女の涙の一滴で,まるですべてが許されたかのように,キリストに跪拝されたユダのように,ここからでなければ,このカプセルの群衆に自由を与えなければという情熱的な癇癪を引き起こす.暴れる,気泡が乱れる,青黒い空間で私のところだけが緋色のランプに包まれる.ブザーが鳴る.

 Any problem?

No, Sir. It’s just stupid thing as usual. You don’t have to worry about that.

Ah, I know him.

Yeah, he is No.0515. His attitude is worse than others. But, there are no problem in entire system.

 

[Hellculeを投与します]...

狂人の歌_不完全

狂人の歌

 

神さま,

房総の海岸で正座.ざあざあ,,,ざああ,,,さぁーーーーー,,,すぅーーーー,,,青白い水,小鳥,いやあれはきっと水で割り過ぎたウヰスキーに違い無い.六畳間のベッドで起きた,私は既にここにいた,脳髄と蛤,灰色の細胞達が輪廻転生,螺旋,束縛,歪,意識,星が見える,星座が見える,あれはオクトパス?いやオリンポス?いやきっとあれはアルキメデスに違いない.螺旋,空間が収斂してゆく,相対性理論の残影,空間は曲がる,人間も曲がる,精神も曲がる,脳髄も曲がる,心も曲がる,逆巻く,渦巻く,私が私であり貴方でないように,渦巻いて,星々が巻き込まれ,夜闇は段々と深くなり,あの燦然と輝く点たちが,曲がる,伸びる,線香花火の灯みたいに,ぽつん,ぽつん海原に落ちてゆく.ウヰスキーに星が添えられた,これが新型アレクサンダーなるか?いいえ私は男ですよ,私も曲がる,一点に収束してゆく,不幸も悲劇も凄愴も残虐も憐憫も劣等も悲壮も懊悩も苦逆も悲痛も絶望も喪失も空虚も孤独も罪も罰も贖罪も私の神でさえ,それらが纏まって,ただ冷たい,冷たい,冷たい,とても冷たい海に,ぽつんと落ちてゆく.

神さま,

房総の海岸で正座,アイス珈琲を飲んでいる.雫雨,五月雨,涙,驟雨,沛然と降る雨が一滴のガムシロップみたいに私の心に優しいの,「私が私を思うほどに,私から遠く離れてしまうのはなぜでしょうか」,ざあざあ,さあさあ,ぴよぴよ,あの数字たちも,あの重力たちも,あの波たちも,あの鳥たちも,あの空気さえも,砂粒の一匙も,綺麗だ,とてもきれいで美しい,しかしそれらもすべて,私の心によって造られた.悲壮の雨降る私の心から生まれてしまった.

神さま,

神さまが居ないなら,この世界はきっと私のこころでできているんですね.

神さま,

心はぐるぐると回ります,一点に収束して,ぽつんと落ちて,発散して,飛び散って,数多の緋色の液体が,まるで大洪水みたいに,それはきっとあの箱舟すらも飲み込むことでしょう,戦争飢餓厄災カタストロフィ悪逆非道の数多の星々が,その液体を飲むためにあの一点から首を伸ばしてくるでしょう.

神さま,

私はあなたを認めません,あなたのお創りになったこの世界も認めません.あなたはウヰスキー一滴ほどの価値もございません.今もなお,私の心は-273℃ほどに冷たいからです.

神さま,

私は今,33階のビルから飛び降りますよ.海にではありません,大地に堕ちてゆくのです.あははは,なんてね.神さま,神さまを殺すのは私で,神さまに殺されるのも私なのです.心は求めてやみません.人も鳥も水も風も木の葉も涙も笑顔も言葉も正気も美しさも果ても未来も色彩も感触も素晴らしき,神よ死ね,素晴らしき焦がれるすべての真理の死,心象風景の灰色が,今となってはただ,一点に集まって,大地でもない,海でもない,地球でもない,太陽でもない,ただ連続無窮の穴の中へと,堕ちてゆくだけなのです.

④『アンドロイドは雪解けの季節に涙を流すか』

4章

 

「あの人,最近なんか元気じゃない?元気というか,前より明るくなったというか,快活な感じよね?」

「ええ,そうね.新婚の奥さんを亡くしてまだ1年ちょっとのはずだけど,新しい恋人でもできたのかしら?」

「さあ,いずれにせよ元気になってよかったじゃない.前はとても暗くて,こっちまで暗くなりそうだったもの.」

「ねぇあなた,ちょっとあの人に聞いてみてよ.新しい出会いでもあったの?って」

「嫌よ!聞けるわけないじゃない.そんなこと聞いて,こっちの気のせいだったとしたら,どんな気まずいことになるか,分かったもんじゃないわ.」

「そうね,当たり触らずね.こういうこと,四字熟語で何と言ったかしら?」

「さぁ.じゃ私仕事してくるわ.」

 

よくもそんな声量で話せるものだ.しかしまあ,どうでもよく,些末なことだと思った.今,私はかつて失われた幸福の最中にある.

職場や,友人には何も言っていない.まさか,「Aが戻ってきたんだ.」などと言えるはずがない.彼らの多くはAの葬式に参列してくれたし,何人かは私を旅行や,飲みに誘ってくれもした.特に近しい友人には,涙を見せもした.そんな彼らに,「Aが戻ってきた.」などと言えば,頭がおかしくなったのかと思われるのが落ちだ.まして,「実はAはAではなく,Aのアンドロイドなんだ.」と真実を伝えてしまえば,精神病棟にでも送られかねない.

何だか心が暗くなった.これから得意先に訪問するのに,こんな気持ちではいけない.

 

Aの身体は,生前と全く同様であった.同じ服を着れたし,同じ靴を履くことができた.彼女は家に来て,「私のお気に入りのブーツ,どこへやったの?」と聞いてきた.私は,「色々なものを整理していた時に間違って捨ててしまった.」とかなり苦しい嘘をついた.彼女は少し不機嫌になった.まさか,言えるわけがない.「棺の中に,一緒に入れたよ.」などと.

 

私たちはやがてセックスもした.全く同じ質感,全く同じ反応.お互いを求め合うとき,裸になって見つめ合うとき,動物的で支離滅裂で情欲にかき乱されるとき,終わった後にお互いの愛を確かめ合うとき.すべてが全く同じであった.

いつかの行為後に,アイスコーヒーを飲んでいた.”苦いはずなのに,とても甘い.”などと現実味の無いつまらない小説家かぶれが書きそうなものだが,私は「ああ,幸福だな.」と思った.

その時ふとあの言葉を思い出す.

『三,アンドロイドであることを,否定してはならない.』

“すべてが全く同じであった.”

いいや違う.すべてが同じではない.私だけが違う.私は知ってしまっている.

③『アンドロイドは雪解けの季節に涙を流すか』

3章 仕事帰り

 

黒いスーツの男から渡された青いカプセルを飲んだところまでは覚えている.それから私は,気づくとスクランブル交差点の前に居た.その日は,単調に家に帰った.

あれから2週間が経った.とても苦いブラックコーヒーに,希望という甘いミルクを少し混ぜて,飲まずにただかき混ぜている様な,そんな2週間を過ごしていた.何の変哲も無い2週間.朝起きて,仕事に行き,帰り,寝る.頭の中は常に曇り空.その様な日々である.

そして2週間後のXデー,その日の天気はパラパラと降る雨だった.私は仕事帰りに立ち寄るスーパーに行って,鮮魚コーナーで新鮮な魚介を見ていた.その時ふと無音になって,コツ,コツ,コツ,コツとメトロノーム調の足音が聞こえる.そして,その白い横顔が隣に並んで,魚をじっと見つめ始めた.

それは紛れもなくAであった.

 

「あら,今日は何にする?」

遠く閉ざされた日常を呼び起こすように,Aがそう言ってくる.私はぽかんとして,まるで川から吊り上げられた暫く放置された魚のように,口を微動させている.

「昨日言っていたじゃない?『最近,カレーやら,肉料理が多いから明日は魚にしよう』って.サーモンのマリネ?それとも鯖の味噌煮?ああ,私今日会社で少し怒られちゃって,あんまり手の込んだ料理はしたくないの.あなたの得意な鯖の味噌煮にしましょうか.ね,いいでしょう?」

 

そうだ,そんな会話をしていた.あの日,家を出る前,カレーや何やらと,そんな話をしていた.

「そ,そうだね.鯖にしよう.」言葉が口を衝いて出た.

 

どんな衝撃も,どんな不可解も,どんな不条理も,どんなに非論理的であってさえ,人間の心の底から湧き上がる情欲に逆らえるように,人間は造られてはいない.一度燃え上がった炎は,いつか冷ましてやらねば,人間の心を燃やし尽くしてしまうだろう.しかし少なくとも,その炎が着火してすぐの時は,どんな人間にとってもその炎は暖かい.

 

私は2匹の鯖を買って,それを袋に詰めて,家路についた.雨がやんでいた.

②『アンドロイドは雪解けの季節に涙を流すか』

2章 渋谷の雑居ビルの一室 薄暗い部屋

 

「物を書くということは,まことに情熱的な仕事なのですよ.物書きに限らず,何かを作る仕事にはすべからく情熱が必要なのでしょうね.」

目の前の黒いスーツの男はそんなことを言いながら,椅子に座って下を向き,何かを書き続けている.

「私が何を書いているのかと,不思議に思われますか?これは,あるアンドロイドの生命の記録ですよ.アンドロイド達の歴史を人生と呼ぶ人も居られますが,私はそういう呼び方が好きではありません.」

その頁数は既に300頁を超えているようだ.何のためにそんな記録をつけているのか,そもそもアンドロイドなどというものが存在するのか,私は疑心暗鬼であった.ここへ来たのは半分以上自暴自棄が理由である.私の心はもはや,現世の何処にも無い気がしていた.あの病室の「ピー」という音の狂騒にさらわれて,Aの命とともに,私の心も手の届かないどこかへ行ってしまったらしい.

「私はこれまで凡そ50名のお客様に“未来”,アンドロイドをご提供してきました.私が初めてご提供したのは今から7年ほど前になります.お客様のうち,ある方はアンドロイドを完全に人であると信じておられるようです.確かに私がご提供するアンドロイドは喜怒哀楽を持ち,愛を分かち合うことができ,物を食べ,年を取ってゆきます.それはまさに人そのものの様です.しかし私自身にとっては,それは紛れもなくアンドロイドなのです.」

黒いスーツの男の言葉が右から左へ抜けていく.

「それであの,ここをお尋ねしたのは,先日カフェで頂きましたお話をもう一度伺いたくて・・・.」

「私の意見等,どうでもよいのです.お客様が喜んでくだされば.さて,ええ存じております.あなたも,”未来”をご所望なのですね?」

「はい,でもどうすれば?」

「“未来”をご購入いただくお客様には,以下の条件を遵守いただく必要がございます.」

その条件とは以下のようなものであった.

一,提供されるアンドロイドの価格は500万円である.

二,提供されたアンドロイドを殺したり,悪意を持って傷つけてはならない.

三,アンドロイドであることを,否定してはならない.

 

この時のことを,私は朧げに覚えている.当時の私は心ここにあらずの状態であり,三番目の条件の重要性や真意について,ほとんど考えなかった.

私は手短に「はい,守ります.」とだけ答えた.

 

「遵守いただけるとのことですので,“未来”をご提供いたします.では確認でございますが,お客様がご所望の方は,“A様”でよろしいですね?」

私は「はい.」と,短く言った.そうして,黒いスーツの男は頷いて,私に青いカプセルを飲めと言い,私はそれを飲んだ.飲んだ後は,青い海,青い空,青い鳥・・・雪が解けている,あの雪解けの懐かしい肌寒さ,あの美しい・・・,三千世界へと意識が漂流していった.

 

3章へ続く